雨の降る気配はない。
畑の作物は枯れ果て、家畜の姿はない。
村では、体の弱い子供や年寄りから命を落とし、伝染病が流行り始めていた。
「マルタ、ごめんよ。九つのお前にこんな試練を与えてしまうなんて、父さんと母さんを許しておくれ」
村はずれの墓地に着くとダニエルはそう言って、マルタの額にキスをした。
隣にいたオリビアは、目に涙をたくさん溜めてマルタを強く抱きしめた。
「父さん。母さん」とマルタは叫んだ。
「お前を一人、こんな所に置いていく私たちを許しておくれ」
オリビアはそう言って、干からびてしわしわになった小さなトウモロコシを一つマルタの手に置いた。
「父さん。母さん」
マルタは叫んだが、ダニエルもオリビアも振り返らなかった。
二人の気持ちを考えると、追いかけてはいけないような気がした。
さりとて、行くあてもない。
しばらくは、途方に暮れたマルタだったが、トボトボと墓地とは反対側にある丘に向かって歩き始めた。
丘にたどり着いた。
丘には大きなサワラの木が聳え立っている。
空を見上げるとサワラの青々と茂った葉の隙間から木漏れ日がキラキラと輝いていた。
大きな風が吹いた。
マルタはしゃがみ込んで、風が通り過ぎるまで目を伏せた。
風がやみ、目を開けると木陰に小さな犬が座り込んでいた。
元は白い犬なのだろうか。薄汚れて黄土色に変色し、たくさんの毛玉をつけた、大変みすぼらしい犬だった。
「お前はどこから来たの?」
マルタは犬に聞いたが、犬はマルタにチラリと目線をやっただけで、すぐにそっぽを向いてしまった。
「お前はどうしてここにいるの? 家はあるのかい?」
マルタはまた、犬に話しかけた。
犬はそっぽを向いたままだったが、少しだけ尻尾の先をヒラリと動かした。
犬は衰弱して動けないようだった。
「迷子になったの? かわいそうに。お前の家を探してあげよう」
そういって、マルタは犬を抱き上げた。
「この犬の飼い主を探しています」
マルタはそう言いながら、村中を歩き回った。
たくさんの人に話しかけたが、誰も相手にしてくれない。
ようやく、一人の農夫が、「その犬は鍛冶屋のロバートのところの犬だよ」と教えてくれた。
マルタは犬を抱えて、農夫が教えてくれた鍛冶屋のロバートの家を訪ねた。
しかし、そこにロバートの姿は無く、家は半分朽ち果てていて、とても人が住んでいるようには見えなかった。
マルタは、ガッカリした。
「お前の家はどこにあるんだい……」
マルタが犬に言うと、犬はクーンと小さく鳴いた。
犬と二人、行くあてもなく、マルタはまた、丘のサワラの木陰に戻った。
時間は夕方になっていた。
あと1時間もすれば、日が暮れそうだった。
マルタは犬を抱いたまま、木陰に座り込んだ。
犬は静かに目を瞑り、おとなしくマルタに抱かれていた。
とても暖かかった。
耳をピクリと動かし、犬は唐突に起き上がるとワンワンと吠えた。
犬はマルタの腕からスルリと抜け、足元に降りるとクルクルとその場を回り、また、ワンワンと吠えた。
犬の吠える方向を見ると白い煙が上がっている。
その煙は森の奥から上がっていた。
犬が森に向かって走り出した。
さっきまで、ぐったりとして抱かれていた犬が物凄いスピードで走っていく。
「ちょっと、待ってよ」
マルタは置いていかれないように急足で犬を追いかけた。
マルタはこれまで森に入った事がない。
なぜなら、森には〈子供さらい〉がいるという、言い伝えがあるからだ。
夜にこの森に入った子供は森の妖精に導かれ魔女の元に連れられて、魔女に動物に変えられ食べられてしまう。
大人達は、子供が夜遅くまで起きていると「妖精が来て森に連れていかれるぞ」とよく説教をしていた。
マルタは、ビクビクしながら森に入った。
犬はどんどん森の奥に進んでいく。
日も暮れ、奇怪な灰色に包まれた森は、サワサワと何やら煩わしい音を立てていた。
ひんやりとした湿った風がマルタの頬をかすめ去った。
マルタは背筋にヒヤリと冷たいものを感じた。
「こんな所で何をしているんだい?」
「ヒャッ!!」マルタは自分でも驚くようなおかしな声を出し、小さく飛び上がった。
「お前が驚くから、私も驚くじゃないか」とその声は訝しげにいった。
マルタは恐る恐る声の方へ身を向けた。
そこには、黒いクロックを羽織った老婆が立っていた。
「お前、一人なのかい?」と老婆は言う。
「犬が……、犬が一緒にいたんだ……」と小さな声でマルタは答えた。
「森の中は獣がいるから危ない。家においで」と老婆は言いながら歩き出した。
いつの間にやってきたのか、老婆の歩幅に合わせて犬が軽やかに並走していた。
マルタは目を疑った。犬は綺麗な白色になっていた。
「大した食べ物はないけど、ご飯をお食べ」と老婆は野菜ばかりのシチューを皿によそってくれた。
老婆はマルタにスプーンを渡すとテーブルの下の床にもシチューの入った小皿をコトリと置いた。
老婆が招き入れてくれた家は、家というには質素な作りで小屋と呼ぶ方がしっくりきた。
「ありがとう」。マルタは老婆にお礼を言うとシチューを口に入れた。
部屋の壁には数枚の写真が額縁に入れられ飾られていた。
「これは、お婆さんの家族なの?」とマルタは聞いた。
老婆は何も答えないまま、隣の部屋に姿を消した。
マルタがシチューを食べ終わる頃、隣の部屋から老婆が戻ってきた。
「こっちの部屋にベッドを用意したから今日はもう休みな」
「うん。ごちそうさま。おやすみなさい」マルタはそう言うとベッドへ向かった。
犬も一緒についてきた。
ベッドに横になると布団から漂う日干しの香りに包まれて、マルタは心地が良くなった。
香りは睡魔を連れてきて、マルタはそのまま眠ってしまった。
〈音が聞こえる〉
〈なんだろう?〉
〈何の音? 音じゃない……。気配……?〉
マルタの意識がうっすらと目覚めた。
〈今、何時(なんどき)だろう?〉
マルタは窓に目をやった。
カーテンの隙間から微かに月の光が漏れていた。
マルタはベッドから降りて窓に近づき、カーテンを少し開けた。
月の光が目を指した。
あまりの眩しさにマルタは顔を歪め、目を伏せた。
マルタはこんなに明るい月を見るのは初めてだった。
カタッ、と音がした。
音のする方を見ると、隣の部屋からのあかりがドアの隙間から漏れている。
犬がドアの前に座っていた。
マルタはドアに近づき、様子を伺うようにゆっくりとドアを開けた。
開いたドアの隙間から、スルリと犬が出て行った。
「あっ……、ちょっと……」
マルタは犬を追いかけた。
「え!?……」
そこは食堂ではなかった。
「星……?」
マルタは、空を見上げてつぶやいた。
そこには、無数の星屑で出来た果てしない宇宙が広がっていた。
「驚いたかい? 綺麗だろう?」
星躔(せいてん)の中からぼんやりと老婆が現れた。
「サーシャがお前を選んだんだ」
「えっ?」
「サーシャだよ。お前の足元にいるだろう?」
足元を見ると、犬が尻尾をヒラヒラと動かしていた。
「ここは……、どこなの?」
「これからお前が暮らす世界だよ」
「えっ?」
「これからお前は、この世界の主になるんだ」
「この世界?」
「そうだよ。お前が望み、お前が創造して、お前が破壊する世界だ。お前の思い通りに創っていい世界だよ」
「僕の思い通りの世界……?」
「そうさ。お前はお前の思う通りに世界を創る存在になるんだ。望み、創造して、破壊する。そしてまた望み、創り上げる。これの繰り返しさ」
「だったら……、だったら、飢饉を止められる?」
「当たり前さ。お前が望んで創り上げるんだ。できるさ。そのためにお前はここに来たんだ。」
「僕は、何をしたらいいの?」
「祈ることだ……。心の底から……」
マルタは跪き、両手を胸の前で組んで目を閉じた。
その瞬間、大きな風が吹き、暖かな水の中に引き摺り込まれるような感触がマルタの全身を覆った。
マルタは自分の体が宙に浮いているような感覚を覚え目を開けた。
星躔は消え、目の前には壮大な緑の草原が広がっていた。
ふと足元を見ると水溜りができている。
「水だ!! お願い!! 村に水を……、雨を降らせて!!」
マルタは叫んだ。
草原に大きな風が吹いた。
マルタはその風に乗って空高く舞い上がった。
高く高く舞い上がると、眼下に村が見えた。
村にはたくさんの雨が降っていた。
「わあぁぁ」マルタは嬉しさのあまり大声を上げた。
また、大きな風が吹いた。
「私は歳をとった。もう、行くよ。」と老婆の声が聞こえた。
辺りを見回しても誰もいない。
「お婆さん? どこ?」
マルタは叫んだが、老婆の姿はどこにもなかった。
ワンワンとサーシャが吠えた。
その瞬間、マルタの体はとてつもない光に覆われ、瞬時に何もない無の世界が広がり、その後、星躔に変わった。
マルタの足元にはサーシャがいた。
サーシャはワンワンと吠えて、マルタの足の周りをクルクルと回った。
「あなたが僕を選んだんだね」とマルタが言うと、サーシャはヒラヒラと尻尾を動かした。
「ありがとう。僕はこの世界を守っていくよ。この世界を誰も飢える事のない世界に……」
サーシャはマルタの足元で力強く尻尾を振った。



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